私たちは、なぜ、葬儀という場で、わざわざ「喪服」という特別な衣服に、着替えるのでしょうか。それは、単に社会的なマナーを守る、という表面的な理由だけではありません。この「着替える」という行為そのものに、私たちの心を、日常から非日常へと切り替え、故人の死という、厳粛な出来事と真摯に向き合うための、深い心理的な意味が込められているのです。私たちの日常は、様々な役割と、それに伴う「衣装」で彩られています。会社員としてのスーツ、母親としての普段着、趣味を楽しむためのスポーツウェア。それぞれの衣装は、私たちの気分や意識を、その場にふさわしいモードへと、無意識のうちに切り替える、スイッチの役割を果たしています。そして、黒一色に染められた「喪服」は、その中でも、最も強力なスイッチの一つです。私服から喪服へと着替える瞬間、私たちは、物理的に、日常の世界から切り離されます。個人的な好みや、社会的地位といった、俗世の価値観を象徴する普段着を脱ぎ捨て、誰もが同じ、黒い衣装に身を包む。その行為を通じて、私たちは、個人の存在を消し、「故人を悼む」という、ただ一つの共通の目的を持った、共同体の一員へと、生まれ変わるのです。それは、自己を主張するための装いではなく、故人への敬意と、他者への配慮を最優先するための「役割の衣装」です。この黒い衣装は、私たちに、故人の死という、抗いようのない現実と、正面から向き合う覚悟を促します。そして同時に、深い悲しみに沈むご遺族と同じ色を身にまとうことで、「あなたの悲しみに、私も寄り添っています」という、無言の共感と連帯のメッセージを送る、コミュニケーションツールともなるのです。葬儀場で着替えるという、わずか数分間の行為。それは、単なる身支度ではありません。日常の喧騒と雑念を洗い流し、心を清め、故人を偲ぶという、神聖な儀式の世界へと、自らの魂を移行させるための、静かで、そして不可欠な「けじめ」の儀式なのです。
着替えるという「けじめ」、日常から非日常へのスイッチ